気仙沼の津波によって陸に上がった船の保存、震災遺構について(2)

仙台で空襲があったことは実感できない

太平洋戦争では仙台に空襲がありました。

死者1000人以上という被害があったとされていますが、仙台市中心部は戦後近代的に整備され、現在は被害を感じることはできません。

仙台市中心部は空襲で焼け野原になった場所を戦後、道路幅を広げたり、青葉通等を新設したり、区画割りを整理した区画整理地で、名称は「戦災復興土地区画整理事業」となっています。

仙台市中心部には、仙台市戦災復興記念館があります。
先日、戦災復興記念館で行われている企画展「戦災復興展」を見に行って来ました。
米軍の仙台空襲の作戦資料が展示され、1階ロビーでは東北大学片平キャンパスの空襲による火災の写真が展示されていました。

印象に残ったのは、常設展として展示されている、エックス橋から見た焼け野原のパノラマ写真と、芭蕉の辻(現在の日本銀行仙台支店付近)から三越、仙台市役所方向を写した写真です。
強固なビル以外何も無くなった風景が津波被災地と似ていると感じました。

しかし、資料自体が少ないのか、空襲時の展示資料は少なく、戦前の写真や戦後復興の写真・資料の展示が中心となっています。

仙台市中心部が、仙台空襲で大きな人的・物的被害が出たということを記憶しておく必要はあるのか、無いのか。親しい人が空襲によって亡くなった人は多くいると思います。

戦争・空襲による被害を受けての教訓を伝えると共に、戦争・空襲によって亡くなった人がいることを多くの人が記憶しておくことは、今後を生きる意味で必要なのではないでしょうか。
 

津波被災地でも同じ

今は、東日本大震災から2年と少し経過しただけで、全国的には震災があった記憶が風化してきていると言われますが、まだまだ気仙沼など東日本の太平洋沿岸で津波被害があったことは強く記憶には残っているでしょう。

しかし、10年、20年と経過し、完全に街が復興した頃には、東日本大震災の津波被害があったことは、忘れ去られるでしょう。

何故かといえば、震災後生まれてくる人にとってみれば、現時点の空き地がある風景というのはただの空き地でしかありません。

今後、土地区画整理が行われ綺麗なビル、住宅が建ち並べば、表面上何もなかった普通の街になります。

例えば、仙台空襲で被災した跡に整備された仙台駅西側地区と、空襲を免れた仙台駅東側の土地区画整理が行われた地区で何か違いはあるでしょうか。

自分自身もそうですが、戦後生まれの人に仙台空襲で大変な被害があったと言われても、あまりピンとこないわけです。
 

広島はどうか

しかし、広島は違います。 広島に原爆ドームがあるというだけで、また、実際に見ることによって戦争体験者でなくても衝撃を感じるわけです。

仙台空襲で落とされた普通の爆弾と、広島で落とされた原子爆弾は、「被曝」という部分で大きな違いがありますが、街が大きな被害を受けたということには変わりありません。

原爆ドームや原爆資料館(広島平和記念資料館)の存在は、広島の平和記念都市としての説得力に大きく影響していると思います。

原爆資料館(広島平和記念資料館)

1995年5月21日
広島市中区中島町
平和大通りから
中国新聞ビル、原爆資料館(広島平和記念資料館)

原爆資料館(広島平和記念資料館)

1995年5月21日
広島市中区中島町
平和大通りから
原爆資料館(広島平和記念資料館)

広島 平和記念公園

1995年5月21日
広島市中区中島町
平和記念公園

広島 原爆ドーム

1995年5月21日
広島市中区大手町
原爆ドーム

広島 元安川、原爆ドーム

1995年5月21日
広島市中区
元安川、原爆ドーム

広島 原爆ドーム

1995年5月21日
広島市中区大手町
原爆ドーム

本川町電停から東方向(写真右の緑の辺りが原爆ドーム)から東方向(写真右の緑の辺りが原爆ドーム)

広島市中区本川町
相生通り
本川町電停から東方向(写真右の緑の辺りが原爆ドーム)

 
気仙沼の津波によって陸に上がった船の保存、震災遺構について

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